ホワイトハウスのライブのあと2、3日は会う人会う人にずっとホワイトハウスの話をしていて呆れられ続けたけれど、さすがにもうこの話をこのまま引っ張るのは賞味期限なので、ここで書いて終わりにしよう。
『今さらホワイトハウス?』と(時には半分懐かしさでもって)言われることもよくあるし、私が生まれたときには既にもう活動していたホワイトハウスをつかまえて今でもものすごい新しい!とは、それは幾らなんでも口が裂けても言えない、でも今でも続けているなんてそれだけで、その佇まいでオーケーと言ってしまうようなね、私はプラシーボででも引っかかってしまうようなミーハーファンですよ。前日まで同時刻別の場所でやっていたアナログノイズの友人のライブとどっちに行くか迷っていて当日券で入ったくらいの。
ドッグヴィル』を見たばかりなので手前みそにラース・フォン・トリアーを引き合いに出してしまうけれど、私の、彼の描き方のやらしさへの態度とホワイトハウスへの態度にはもしかしたら似ている点があるかもしれない。『ドッグヴィル』にしても、観客は最終的にどう転ぶのかというのは最後までわからないものの、どうやったって幸せな結末にはならないだろうという確信的な前提をもって最後までの時間の経過を見つめさせられる。最初から半分わかっているような結末に向かうまでの時間の過程を、観客に生理的嫌悪感を抱かせることだけが目的かというほどに、丁寧に見つめる。もうどうなるかわかっているのに、ゆっくりと丁寧に、少しも省略することなく、時間的関係性もそのままで説明されることほど馬鹿にされていると感じることもあまりない。自ら映画館に足を運んでいるのに、「映画館を途中で出るという選択をしにくい自分に向かってこんな映画を見せるなんてなんて暴力的なんだ」とか思っちゃったりしても(ドッグヴィルはそういう色は薄い)、またおめおめと次の作品にも足を運んでしまうような。映倫的にハードな映像だとは全く思わないけれど、そういう意味ではなく、監督対全観客のかるーい公開SM(しかも羞恥、お預け系)という一つの楽しみ方。監督の、俳優を見る眼差しが作品全体に匂いのように存在していて、同時にうつり込んだ観客の目をあざ笑っている。これは被害妄想なのか。
で、ホワイトハウスの話を書こうと思っていたんだけどここで力尽きました。続きは明日。