オプトロン in SuperDeluxe

さいきん、
友人の手ににぎられていた携帯のあまりの小ささにのけぞる。
あれだだれ、昔懐かしいキーホルダーのテトリス位の大きさしかない『カ、カワイイ...』本体に、
ちょうどテトリスのとおなじ位の押したらぴこぴこいいそうなあまりにちいちゃなボタンがついているやつ。
どう見ても携帯というよりガチャポンのおまけのミニゲーム機で、友人にメールの操作画面をスクロールして見せてもらうまでとても信じられない。

あと手に持ったときの、目測を裏切るような重みは重要。小さい頃祖父の大事にしていた一眼レフのカメラを放さない私に困った両親が、私がちょっとカメラを置いたすきにそっとモックアップみたいなオモチャのカメラとホンモノを交換しておくとよくべそをかいていたらしい。間違いなく軽いのが悲しかったんじゃないだろうか。そのオモチャのカメラを振ったときの、カラカラと乾いた音のするようなあまりに甲斐のない手のすっぽ抜けるような感覚。FREITAGのバッグだって、殆どあの重さに魅かれて買ったようなものだしね。

小さい頃、小学校から何回か東京電力の火力発電所とかに連れていってくれて、そうすると赤いビニール張りに金地で『エネルギーブック』みたいなタイトルの書いてあるそんな感じの手帖らしきものをくれた。火力発電所水力発電所、と多分3、4回くらいは東京電力関係の施設に行っているから少しずつヴァージョンアップされたその『エネルギーブック』が毎年分たまるわけです。表紙のひんやりとしたつや消しのビニールのさわり心地がちょっと贅沢な感じがして気に入っていて、気がつくとよくその手帖をひらいていたんだけれど、最初の見開きの数ページに描かれている未来の生活予想図はどうにも恐ろしくていつもすっ飛ばしてた。
そうそう、まさにドラえもんのきた世界みたいな、そんな感じの近未来都市が凄く苦手だった。たまに町全体が透明なドームに覆われていたり、浮いた車が上空をたくさん飛んでいたり、脱ぎ着する必要のない体にぴったりした服とか。人間が薄気味悪い笑を浮かべながらゆったり団欒しているよこで、ロボットがかいがいしく動いていたり。それって今考えると、バックミンスター・フラーの未来観を薄めてお気楽にしたようでもあるし、多分キューブリックのあの映画での未来風景まんまなんだけれど、その肌感覚を無邪気にどんどん減らしてゆく方向への未来志向がめちゃめちゃ怖くって。まだ古い1980年くらいの小学館のコドモの為の百科事典で見る分には古い紙の匂いとともに時代がかっていて笑いながら読めるんだけれど、天下の東京電力が1990年代に描く未来像があれ、というのは「もしかして本当にこうなっちゃうのかも」というリアリティーで物凄く不安だったのを覚えてる。サザエさんの古きよき(だったと思われる)日本に窒息するようなルーティーン感もてんで苦手なハードコアな(笑)コドモだった僕(笑)は、まさか2004年に電話というものがあそこまで『エネルギーブック』の世界にすりよって小さくて軽いものになるとは全く知る筈がない。友人の携帯を手にころがしながら、あのビニールの障り心地を思い出した。