hair stylistics『custom cock confused death』

“誰かがどこかで「中原昌也は小説よりも座談会の方が面白い」ということを言っていた。”※

暴力温泉芸者改めHair Stylisticsがデビューしたことになっている97年は、中学3年の私は赤点と腹膜炎というダサく情けない理由で高校進学の危機に陥っていた。何もすることがないので仕方なく無機質な白い病室に持ち込んだ雑誌で、はじめて暴力温泉芸者という名前を見る。ロングブーツを履いたコギャル達の広告に挟まれたそのイメージはあまりにも時代がかっていて、もはや97年オリコン1位の安室の"Can you celebrate?"と同じくらいの遠さでしかない。そのHair Stylisticsが今さら2004年にデビューアルバム。この7年で中原昌也は音楽の人から、小説の人にものすごい勢いで変わってしまったというのに。安室なんて結婚して離婚。
全部PCで作られた音は驚くほどよく練られていた。その組立のうまさに、このアルバムもV.O.G.と同じようにまたもノイズと思わされてしまいそうになる、危ない。Hair Stylisticsはどこまで行ってもノイズじゃない。かつてtrattoriaから出していたことにより、V.O.G.もその横のつながりで聞かれていたけれど、そんなJ-POP的な横断はいかに当てはまらなかったか、ということがわかるためにはこの7年間が必要だったのかもしれない。例えばSMAPの詞の「ボク」が常に聞き手の主体があてはめられるべく拡大が可能となっているのに対し、中原昌也の小説においての視点は複数の作品を横断している点で入れ物としての拡大が一見可能そうな揺らぎを見せつつも、実は全くそんなことはない。それは彼の音楽においても同じで、サウンドコラージュの固定された彼の視線は、クロノス時間とカイロス時間を行き来することを強制するノイズとは全く違和感のあるものだから。だからその視線により、作品論で語られることを難しくしてしまうし、中原昌也が語っている筈の座談会なのに、J-POP的な主体の拡大解釈が出来そうな気に一見させてしまうような、不思議なゆすりをかけられる。
『C.C.C.D.』は美しい。露悪趣味で、ノイズっぽい顔をしつつ、耳障りがよすぎるほどの一貫性でもって成立させることで、なんの疑問も聞き手に抱かせないから。これがアバンギャルドだなんて、とんでもない。こんな正統なのに。

はてなで中俣暁生さんが書いていた気がします